朝来市概要: 朝来市は古くから開けていた地域で、5世紀前葉に築造された「茶すり山古墳」は直径約90m、高さ約18mの大型円墳で円墳としては近畿地方最大規模とされ、5世紀中葉に築造された池田古墳は全長141m(周濠を含めると全長170m)、前方部幅約71m、後円部系約76mの前方後円墳で、兵庫県では4位、但馬国では最大規模となります。
これらの大型古墳は当地方を納めた首長クラスの豪族の墳墓と推定され当時の朝来市は彼らの中心地又は重要視された場所だったと思われます。このような背景から但馬国一之宮である粟鹿神社が創建され延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では名神大社に列し但馬五社の一つとして後世まで崇敬されることになります。
中世に入ると但馬国守護となった山名氏が支配しましたが、この地は瀬戸内海側の諸国と山陰側の諸国を結ぶ交通の要衝で、豊富な産出量を誇った生野銀山を擁していたこともあり度々侵略を受けます。
永禄12年(1569)には羽柴秀吉による但馬侵攻により一時織田領となりますが、その後山名氏が復権、しかし、権力地盤が脆弱になった為、毛利氏や荻野の侵攻を受けます。秀吉が天正5年(1577)の侵攻後は羽柴秀長が配され天正8年(1580)には完全に織田領となります。
その後、領主となった赤松広秀は関が原の戦いの際当初は西軍に付ましたが、東軍に寝返り鳥取城(島根県鳥取市)の攻略などに協力、しかし亀井茲矩の謀略により自刃に追い込まれています。
江戸時代に入ると主に幕府の直轄地となり、特に生野銀山は幕府の直営となり活気を呈しました。一方、交通の要衝でもあり、和田山宿は山陰街道の宿場町として多くの人や荷物の往来がありました。
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