朝来市: 粟鹿神社

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粟鹿神社
粟鹿神社
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粟鹿神社 粟鹿神社 粟鹿神社 粟鹿神社
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概要・歴史・観光・見所
粟鹿神社(朝来市)概要: 粟鹿神社粟鹿神社の創建は不詳ですが紀元前まで遡ると云われ、この地を開発した四道将軍の1人とされる日子坐王(開化天皇の第3皇子)が祀られています(本殿背後の土盛は日子坐王の墳墓と伝えられています。)。又、粟鹿山から鹿が粟を三束くわえてこの地に現れ、人々に農業などの技術指導したことから、その鹿を祀っているとも言われています。当初は粟鹿山中腹にある池ヶ平に鎮座していましたが、神功皇后が新羅遠征の際、粟鹿神社に戦勝祈願を行い、見事勝利したことから、現在地に社殿を造営し池ヶ平から遷座したそうです。これらの霊験は朝廷にも聞こえ、度々勅使を遣わし祈願を行っています。記録的には和銅元年(708)には「粟鹿大明神元記」が編纂され、「正倉院文書」によると天平9年(737)には「但馬国正税帳」にその存在が記載(朝来郡粟鹿神戸祖代六十六束二把)され、「新抄格勅符抄」によると大同元年(806)に神封二戸を賜り、「続日本後紀」によると承和12年(845)7月従五位下、「日本三代実録」貞観10年(868)12月27日に正五位下、「日本三代実録」によると貞観16年(874)3月14日に正五位上に列し延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には名神大社として記されており、文字通り、中央にも格式の高さが認識されていました。中世に入ると神仏習合し、建保元年(1213)には別当寺院となる粟鹿社法養院真福寺が創建、応仁の乱の兵火により社殿が焼失し記録や社宝なども失われましたが、その後再興されると粟鹿神社の神官、日下部氏(当初の神官は素戔鳴命の後裔とされる神部氏)の一族とされる八木氏や朝倉氏、奈佐氏などが崇敬庇護しました。江戸時代に入ると幕府が庇護し社領33余石が安堵され、天保10年(1866)には社殿が造営されています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、明治5年(1872)に郷社、明治12年(1879)に県社に列しています。歴史的な背景は粟鹿神社が但馬国随一の古社ですが中世までは出石神社の社運が隆盛し但馬国一宮と認識されており鎌倉時代に編纂された但馬国大田文では出石神社が一宮、粟鹿神社が二宮と記されていて、兵火などで出石神社が衰退すると天正18年(1580)以降に記された大日本國一宮記では粟鹿神社が一宮となっています。勅使門の建築年は不詳ですが、室町時代に建てられたと推定される建物で、切妻、桧皮葺、一間一戸、四脚門、朝来市指定文化財に指定されています。随神門(神社山門:日の出門)は切妻、桟瓦葺、三間一戸、八脚単層門。拝殿は入母屋、銅板葺、平入、桁行3間、梁間2間、正面1間向拝付。本殿は三間社流造、銅板葺、正面1間向拝付。祭神:彦火々出見命・日子坐王・阿米美佐利命。
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