神戸市: 湊川神社

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湊川神社
湊川神社
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湊川神社 湊川神社 湊川神社 湊川神社
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概要・歴史・観光・見所
湊川神社(神戸市)概要: 湊川神社の創建は明治5年(1872)、伊藤俊輔(後の総理大臣伊藤博文)らの尽力で楠木正成御霊を勧請したのが始まりとされます。当時、天皇家に尽力した偉人を神格化する風潮があり、略国策の1つとして数多くの神社が創建されました。楠木正成は南北朝時代、南朝の有力武将として後醍醐天皇に仕えた人物で鎌倉幕府滅亡の一翼を担い、足利尊氏など多くの武将が離反した後も一貫として南朝軍を指揮し奮戦しましたが延元元年(1336)、湊川の戦いで敗退し自刃し、亡骸は現在の湊川神社境内に葬られました。当初は篤く信仰され、戦国時代には豊臣秀吉により免租地となり、江戸時代に入ると尼崎藩主青山幸利が墓碑である五輪塔が建立され、周辺には松と梅が植樹されました。しかし、時代共に荒廃し、徳川御三家の1つ水戸藩主徳川光圀が参拝に訪れと、正成の墓域があまりに荒廃しているのを嘆き、元禄4年(1691)に新たに塚を築き、周辺から石材を集め、自ら「嗚呼忠臣楠子之墓」の書をしたためて墓碑として建立しました。光圀は大日本史の編纂でも見られるように尊王思想が随所に見られ、それが元となり水戸学が発展し幕末の尊王を掲げる運動に大きく寄与し、関係者は楠木正成を信仰の対象としました。明治維新が成った慶応3年(1867)に尾張藩主徳川慶勝が正成の神社創建を建白し、明治元年(1868)に明治天皇が許可、それを受けて正成が自刃した地で墓域でもある当地が境内として定められ、明治5年(1872)に社殿の竣工をもって正成の御霊が勧請されました。社殿は太平洋戦争の戦災により焼失し、昭和27年(1952)に鉄筋コンクリート造で再建されたもので、八棟造り、本殿には中央に正成、向って右側に正成公夫人、向って左側には贈、楠木正行、楠木正季、菊池武吉命、江田高次命、伊藤義知、箕浦朝房、岡田友治、矢尾正春、和田正隆、神宮寺正師、橋本正員、冨田正武、恵美正遠、河原正次、宇佐美正安、三石行隆、安西正光、南江正忠が祭られています。神門(神社山門)は切妻、銅板葺、三間三戸、外観は中国や黄檗宗寺院の山門などに見られる屋根が3つに分れている特異な形式が採用されています(旧神社山門は兵庫県赤穂市に境内を構える大石神社の義芳門として昭和17年:1942年に移築されています)。湊川神社境内にある楠木正成墓碑と社殿背後にある楠木正成戦没地が国指定史跡に指定されています。
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