多田神社(川西町)概要: 多田神社の創建は天禄元年(970)、摂津守となった源満仲によって勧請されたのが始まりと伝えられています。源満仲は源頼光(摂津源氏の祖)、源頼親(大和源氏の祖)、源頼信(河内源氏の祖)の父親にあたる人物の事から多田神社が源氏発祥の地とも云われています。長徳3年(997)に満仲が死去すると当地に葬られ廟所と、満仲像を安置する御影堂が造営され、その後は多くの堂宇や坊が設けられ寺運も隆盛しました。当初は天台宗のを宗派としていましたが、文永10年(1273)に忍性が再興した際に真言律宗に改宗し、将軍家や執権北条家からも庇護されました。室町時代に入ると足利将軍家から崇敬庇護され、特に初代将軍足利尊氏は建武3年(1336)に源氏縁の寺院である事を知って篤く帰依し、戦勝祈願を行い念願成就すると寺領を寄進、延文3年(1358)に尊氏が死去すると遺骨の一部が境内に葬られ、歴代将軍家もそれに倣っています。天正5年(1577)有岡城の戦いの際、津田信澄(織田信長の甥)の兵火により社殿が焼失します。江戸時代に入ると源氏の後裔とされる徳川将軍家から庇護され寛文年間(1661〜1672年)には4代将軍徳川家綱により社殿が再建され社領500石が安堵されています。古くから神仏習合し寺号として多田院、多田大権現社などと称していましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後の廃仏毀釈運動により仏式が廃され神社となり、県社に列しています(南大門に安置されていた金剛力士像は満願寺に遷されています)。随神門(神社山門)は寛文7年(1667)に造営されたもので、三棟造、切妻、本瓦葺、三間一戸、八脚単層門。本殿は寛文7年(1667)に造営されたもので、入母屋、檜皮葺、平入、桁行3間、梁間3間、正面3間向拝付、棟梁は中井正知。拝殿は寛文7年(1667)に造営されたもので、入母屋、檜皮葺、平入、桁行7間、梁間3間、正面3間向拝付、棟梁は中井正知。多田神社随神門(神社山門)、本殿、拝殿は江戸時代初期に建てられた社殿建築の遺構として大変貴重な事から昭和41年(1966)に国指定重要文化財に指定されています。祭神:源満仲、源頼光、源頼信、源頼義、源義家。
多田神社の文化財
・ 本殿−寛文7年・入母屋・檜皮葺・桁行5間・梁間3間・3間向拝−国指定重要文化財
・ 拝殿−寛文7年・入母屋・檜皮葺・桁行7間・梁間3間・3間向拝−国指定重要文化財
・ 随神門−寛文7年・三棟造・八脚門・本瓦葺−国指定重要文化財
・ 境内一帯(多田院)−国指定史跡
・ 多田神社文書(492通)−鎌倉時代〜桃山時代−国指定重要文化財
・ 南門−延宝4年・三間一戸・八脚門・本瓦葺−兵庫県指定有形文化財
・ 東門−江戸時代初期・高麗門・一間一戸・本瓦葺−兵庫県指定有形文化財
・ 西門−江戸時代初期・高麗門・一間一戸・本瓦葺−兵庫県指定有形文化財
・ 六社神社本殿−江戸時代初期・三間社流造・檜皮葺−兵庫県指定有形文化財
・ 厳島神社−江戸時代初期・一間社流造・檜皮葺−兵庫県指定有形文化財
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