・平安時代末期頃、日下部氏一族の日下部宗高が但馬国養父郡朝倉郷に配され、地名に因み「朝倉」姓を掲げたのが、戦国時代に越前国守護職として名を馳せた朝倉氏の始まりとされます。
跡を継いだ朝倉高清は源平合戦時に平家方に味方した事で一時没落しましたが、悪行を働いていた事で、旧領が戻された他、木瓜紋を賜り、その後、本城となる朝倉城を築いています。
家督は、高清の次男である信高が継ぎ、長男の安高は八木城を築き八木家を起こしています。
又、高清の弟である二郎盛高が小佐家を起こし、一族の領土経営を確立しています。
室町時代に入ると但馬朝倉氏一族は但馬国守護職の山名氏に従っていましたが、山名氏が衰微すると織田信長の命で羽柴秀吉が但馬に侵攻してきた為、毛利氏を後ろ盾としています。
しかし、天正5年に朝倉大炊と八木豊信は羽柴方に降伏、その後、その混乱の中没落しています。
江戸時代に入ると天領に属し、元禄11年に旗本の八木高補(勘十郎)領になりましたが、元禄16年以降は再び天領となっています。
当地は山陰街道の宿場町であると同時に円山川と八木川の合流する両舟運の要衝だった事から、物資の集積地として重きを成しました。
延宝〜元禄年間頃からは年2回定期市が立ち、多くの人や荷物が往来するようになりました。
特に八鹿舟や宿南舟と呼ばれる舟運は日本海の海産物や塩を内陸部に齎し、当地に集積された炭や板等の特産物が他地に運ばれて行きました。
安永8年に記録された村明細帳によると家数163軒、人口772人、医師2軒、大工9軒、木挽4軒、桶屋3軒、紺屋6軒、酒屋2軒があったと記されています。
江戸時代末期以降は繭や生糸の集積地となり明治3年には鑑札所持者数は生糸商23軒、蚕種商9軒を数えています。
明治時代後期に山陰本線が開通すると駅が少し離れた所に設置され、国道も中心部を通過しなかった為、急速な近代化が図られなかった事から、現在も伝統的な町屋が数多く残され良好な町並みを見る事が出来ます。
特に主屋の外壁に「本卯建」を揚げる町屋が目立つ独特な町並みで、兵庫県景観形成条例の景観形成地区に指定されています。
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