・慶長6年に関ヶ原の戦いの功績により山名豊国が七美郡5郷6千7百石が与えられると、兎束村下中山に陣屋を設け、家臣を派遣して当地を支配しました。
寛永19年に3代目山名矩豊が改めて陣屋を黒野村に遷し地名を「黒野」から「村岡」に改称しています。
黒野村の文献的初見は弘治3年に編纂された「但馬国にしかた日記」で、それによると伊勢神宮の御師である吉久が「くろのゝ村」で神札「廿斗」を配っており「大き山あき殿」他が居住し、「せんとう庵」等があったと記されています。
又、寛永16年の知高帳によると村岡町高二三五石余と同町百姓七四石余と記されている事から寛永16年の時点では既に「村岡」の地名があった事となり寛永19年説とは齟齬が生じています。
陣屋町には山陰街道を引込、街道沿いには商人町として、陣屋周辺には山名家の家臣が澄武家屋敷がある武家町として町割りされています。
文化3年には尾白山山麓に陣屋を移転し、安政年間にかけて、武家町と町人町、百姓町に区分する町割りが行われています。
文化11年1月15日には伊能忠敬の第8次測量で村岡宿を訪れており、尾白屋今井治右衛門宅と油屋尾谷与右衛門宅で宿泊しています。
慶応4年、11代山名義済が新政府に与した事から、西園寺公望総督が率いる山陰道鎮撫使が村岡宿で宿泊、洪水により滞陣を余儀なくされると同じく新政府軍に与した鳥取藩は西園寺総督に謁見する為に家老を村岡に派遣しています。
山名義済は上記の功績により新政府から1万1千石の高直しが認められ諸侯に列格すると村岡藩を立藩しています。
その後も当地域の行政、経済の中心として賑わいましたが、山陰本線が開通すると当地はその経路から大きく外れた事で地勢的な優位性が失われています。
現在も街道沿いには明治時代以降に建てられた町屋建築が点在し、懐かしい町並みを見る事が出来ます。
|