備 考− | 生田神社は神功皇后が朝鮮半島に遠征を完遂し、凱旋帰国した際に御告が下り、神功皇后から稚日女尊を祀る事を命ぜられ海上五十狭茅により創建されたと伝えられています。海上五十狭茅は五十狭茅宿禰の子供とされる人物で、父親の代までは天皇家と対立していましたが、本人は天皇家に従い、以後、海上氏が生田神社の神官を歴任しています。「新抄格勅符抄」には大同元年(806)に神封44戸が寄進されていた事が記載され、「三代実録」によると貞観元年(859)に従四位下、貞観10年(868)に従三位、同閏に従一位に列し、平安時代に成立した延喜式神名帳には格式が高い名神大社、相嘗祭七一座、祈雨神祭八五座として記載されていました。当初は布引山に鎮座していましたが、延暦18年(799)の大洪水により山崩れが発生し境内、社殿共に大きな被害を受け現在地に遷座しています。境内一帯は神域として保護された為、鎮守の森として植物が旺盛で往時は「生田の森」と呼ばれ歌枕の地となっています。又、戦略的な要地に位置し境内が広大だった事から戦場では本陣として利用され、度々戦禍による兵火により社殿が焼失しています。 |