創建年− | 明治5年(1872) |
祭 神− | 主祭神:楠木正成・配祀神:楠木正行・楠木正季・菊池武吉・江田高次・伊藤義知・箕浦朝房・岡田友治・矢尾正春・和田正隆・神宮寺正師・橋本正員・冨田正武・恵美正遠・河原正次・宇佐美正安・三石行隆・安西正光・南江正忠
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格 式− | 別格官幣社・別表神社 |
文化財− | 段威腹巻( 一領、竜野藩主脇坂家の家宝、明治24年奉納、国指定重要文化財)
紙本墨書法華経奥書( 一幅、南北朝時代、楠正成真筆、国の重要文化財)
楠木正成墓碑(国指定史跡)
大楠公御殉節地(国指定史跡)
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神 事− | 例祭:7月12日 |
場 所− | 兵庫県神戸市中央区多聞通 |
備 考− | 延元元年(1336)、鎌倉幕府の倒幕と建武の新政に尽力した楠木正成が足利尊氏に湊川の戦いに敗れ自刃すると当地に埋葬されました。当初は篤く祀られていたと思われますが、江戸時代に入り徳川家康の孫で、水戸藩2代藩主水戸光圀が訪れた際には荒廃が進み、それを嘆いた光圀は墓碑周辺を整備し、元禄5年(1692)には「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑(文字、撰文は光圀、裏の碑文は明出身の水戸藩御抱え儒学者である朱舜水の文)を建立、以後、水戸藩内の国学では楠木正成が尊崇する対象となっています。江戸時代末期になり尊王思想が活発になると楠木正成の御霊を祀る楠社創建の気運が高まり、慶応3年(1867)に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされました。明治維新が行われるとさらに気運が高まり、明治元年(1868)には明治天皇の勅命により創建が決定されました。その後は、政府の要人だった伊藤俊輔(後の総理大臣伊藤博文)等が中心となり、楠木正成の自刃地と墓地のある当地が境内と定め社殿の造営が開始され明治5年(1872)に竣工し御霊が勧請され湊川神社が創建されました。昭和20年(1945)の神戸大空襲の戦災を受け殆どの社殿が焼失し大きな被害を受けましたが、その後再建されています。
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