・当地域は古くから山陰道と播但道が交差する交通の要衝で、旧和田山町には黒漆で木葉文を描いた木製壺が出土しています片引遺跡等五箇所の縄文遺跡、二十一箇所の弥生遺跡があります。
古墳時代になると有力豪族が出現し、城ノ山古墳や池田古墳、舩宮古墳、茶すり山古墳等が築造されています。
和田山宿に近い城ノ山古墳は4世紀末頃に築造されたと推定される円墳で、南北30m、東西36m、高さ5m、副葬品として三角縁神獣鏡3面を含む銅鏡6面の他、石釧4個、石製合子1個、琴柱形石製品1個、勾玉・菅玉80個以上、刀剣・工具類13点余が発見されています。
隣接している池田古墳は5世紀中頃に築造されたと推定される前方後円墳で、古墳総長約172m、墳長約136mは但馬地方最大規模、兵庫県第4位の規模を誇り、外表は葺石で覆われ、円筒埴輪や水鳥形埴輪23個を含む形象埴輪が並べられていました。
律令制下では日下部氏の影響下にあったようで、鎮守である二宮神社の祭神は諸説あるものの、本社格の赤渕神社の社殿によると日下部荒島と同神の朝倉殿(表米親王=日下部宿禰の第二王子)としています。
鎌倉時代に入ると但馬国守護小野時広や安達親長、太田氏の支配下となり、室町時代には概ね山名氏が守護職を歴任、隣地の竹田城には家臣の太田氏が配されています。
広秀は豊臣秀吉の直臣として九州の役や小田原の役、文禄の役等に従軍、慶長5年に発生した関ヶ原合戦において西軍に与し、その後、東軍に転じたものの徳川家康の命により切腹が命じられ竹田城も廃城となっています。
江戸時代に入ると幕府領の生野代官所に属し、正保年間に描かれた絵図に和田山町高37石、但馬国高附訳手控には和田邑高38石、宝暦7年の但馬国高一紙と天明8年の高村就邑名控には高41石余と記されています。
承応2年に円龍寺が開創すると次第に門前町としても発展し、特に円山川の氾濫で死去した者達を慰める為に安置された六地蔵で毎年8月22〜23日に開催される和田山地蔵祭は但馬三大祭に数えられています。
一方、山陰街道の宿場町で交通の要衝だった事もあり、多くの人々が行き交い物資の集積場として賑わいました。
永享2年の記録、菱屋平七長崎紀行には和田山駅の事を「上組・下組とわけたるを、合わせて五丁計りの町つづきなり、茶屋・宿屋あり、宿屋ハ甚よきあり」と記しており、繁栄が窺えます。
江戸時代後期に行われた伊能忠敬の測量では別動隊を率いた永井甚左衛門が街道の分岐点に設けられ道標「右はりま 左いせ」に「和」の杭を打ち、忠敬が率いた本隊が矢名瀬町に「矢」の杭を打ち込み、その距離を測量し中田屋多右衛門邸で休息しています。
現在も街道沿いには良好な町並みを見る事が出来、宿場町の雰囲気が残されています。
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