竹田城概要: 竹田城は嘉吉年間(1441〜43)、当時の丹波国守護職山名持豊が築いたのが始まりとされます。城主には重臣である太田垣を配し、長きにわたり太田氏が領主として支配します。この地は播磨国に接する軍事的要衝の地で山名氏は播磨国守護職である赤松氏と度々諍いが起っており常に軍事的緊張が高かったとされます。山名氏は応仁の乱後、丹波国守護職細川氏とも対立し、戦国時代には毛利氏や織田信長などとも対立、家臣である太田氏も半独立的な立場を執った為、急速に衰退します。特に竹田城は国内有数の銀山とされた生野銀山に隣接していたこともあり、天正5年(1577)には羽柴秀吉が丹波に侵攻し、竹田城攻略には弟である羽柴秀長が派遣され3千の兵を率いわずか3日で落としたとも云われています。その後、一時太田氏が奪還しましたが天正8年(1580)、再び羽柴秀長の侵攻により太田氏は降伏し竹田城は秀長の家臣桑山重晴が城主として配されています。桑山重晴が和歌山城に転封となると、山名氏の宿敵とも言える赤松氏が竹田城に入り、大改修され現在見られる城郭が完成されます。赤松氏は関ヶ原の戦いで西軍に付き、東軍側の田辺城(京都府舞鶴市)を攻略、本戦が敗れると東軍に加わり鳥取城(鳥取県鳥取市)を攻めますが、徳川家康の命で切腹をさせられています。このことにより赤松氏は改易となり竹田城は廃城となります。竹田城は昭和18年に国指定史跡に指定され、平成18年に日本名城100選に選定されています。
竹田城の城郭
案内板によると「 竹田城の縄張りは、最高所の天守台をほぼ中央に置き、本丸以下、二の丸・三の丸・南二の丸が梯郭式に配され、大手口を防御する枡形部に沿う北千手敷郭と搦手口のある南千畳を双翼とし、さらに、天守台の北西部には花屋敷と称する一郭がある。また、城郭の周囲には現存の石垣より古い時代の遺構である竪堀も確認され、複合遺構として今後の総合的な調査・保存が必要となっている。規模は南北約400m、東西約100mである。」とあります。
|