稲爪神社(明石市)概要: 稲爪神社の創建は不詳ですが伝説によると推古天皇の御代(593〜628年)、朝鮮半島から鉄人を称する武人が8千人の家来を率いて都に侵攻しました。勅命により伊予国出身の小千益躬が討伐に出陣しましたが苦戦を強いられ当地まで後退を余儀なくされ、日頃から信仰している大山祗神社に助力を乞いました。すると益躬の霊夢に大山祗神社の祭神である三嶋大明神が立ち、鉄人の弱点は足の裏にある事を告げました。益躬は再び鉄人と対峙すると突然稲妻が走り、驚いた鉄人は腰を抜かし足の裏を見せてしまいました。益躬はその隙を逃さず鉄人の足の裏に矢を射掛けると脆くも死去し、大将を失った朝鮮軍は四散したそうです。益躬は神意に感謝すると三嶋大明神の分霊を勧請し稲妻神社と名付け、その稲妻が訛り何時しか稲爪神社と呼ばれるようになったと伝えられています。この伝説の真意は解りませんが、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている伊和都比売神社に比定さているなど古くから格式が高く歴代領主から崇敬庇護されてきました(伊和都比売神社が転じて稲爪神社と称するようになったとも)。天正6年(1578)、高山右近による兵火により社殿が焼失し(織田信長が別所長治が籠る三木城に侵攻した兵火と思われます)、現在の熊野皇神社境内地に遷座しましたが寛永14年(1637)に再び現在地に遷座し社殿が再建されました。歴代明石藩主から庇護され慶安4年(1651)には松平忠国が5石、寛文2年(1662)には松平信之が1石、貞享3年(1686)には松平直明が5石とそれぞれ社領を寄進しています。明治時代以降は郷社に列しました。
現在の本殿は昭和52年(1977)の火災で焼失後に昭和54年(1979)に再建されたもので、一間社流造、銅板葺、構造部朱塗。拝殿は昭和54年(1979)に再建されたもので、切妻、銅板葺、平入、正面千鳥破風、正面1間軒唐破風向拝付。神門(神社山門)は享保2年(1717)に建てられたもので、入母屋、本瓦葺、三間一戸、八脚単層門、素盞鳴が大蛇退治した神話を模した彫刻は左甚五郎が彫刻したものと伝えられています。毎年10月8日の例祭で奉納される「大蔵谷の獅子舞」は戦国時代に筑前(福岡県西部)の武将である秋月種実が秋月家に伝わる神楽獅子を伝授したと伝わる行事で兵庫県指定無形民俗文化財に指定されています。大蔵谷の囃口流しは10月の例祭に奉納される行事の1つで、氏子の家々を廻り玄関先で三味線に合わせて、うっかり節、ちょんがれ節で謡われるもので、江戸時代の風俗の伝える貴重な事で明石市指定無形民俗文化財に指定されています。大蔵谷の牛乗りは10月の例祭に奉納される行事の1つで稲爪神社の創建の由来(鉄人と連れて来た牛、鉄人を退治した小千益躬の伝説)を現在に伝える貴重な事から明石市指定無形民俗文化財に指定されています。祭神:大山祇大神、面足大神、惶根大神。合祀神:伊和津比売大神、宇留大神、稲爪濱恵比須神社。
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