・觜崎の地名の由来は、当地に流れる揖保川の左岸に連なる山容が鶴嘴山と呼ばれ、その嘴の先にある為に「觜崎」と呼ばれるようになったと伝えられています。
中世に入ると越部下庄の庄域だったとされ建保6年にはその地頭として赤松清則が赴任し柴摺城を築き5代にわたり城主を歴任、「觜崎」姓を掲げました。
当地は古くから因幡街道や美作道の宿場町として既に成立していたようで、元弘3年に筆された「書写山行幸記」によると「二十七日、主上自千本宿御立、於箸崎宿暫被休仙駕」と記されており、伯耆国船上山の合戦で勝利した御醍醐天皇が京都に凱旋する際に書写山円教寺の参拝を求め、觜崎宿で休憩をとったとしています。
揖保川の急流によって形成された断崖には文和3年藤原某の追善供養の為に磨崖仏が彫刻されており、貴重な事から兵庫県指定史跡に指定されています。
貞和4年10月18日に播磨の峯相山鶏足寺に参拝した筆者が、鶏足寺の老僧と播磨の社寺の縁起や伝説伝承を問答したものを纏めた「峯相記」によると「当時姫路・觜崎辺ニ、季念仏トテ、称名ハカリ形ノ如ク有」と記されている事から、承和年間に当地には季念仏衆の存在が示唆され、上記の磨崖仏にも深く関わったと推定されています。
正平7年/文和元年頃から播磨国守護職赤松則祐が兵庫県内屈指の山城となる城山城を10年以上の歳月にかけて築城しています。
城山城の麓には赤松則祐・義則の2代が守護所となる「越部守護屋形」を設けた事から隣地である觜崎宿も大いに賑わったと思われます。
嘉吉元年に播磨国・備前国・美作国の守護職として権勢をふるった赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教を殺害する嘉吉の変を起こすと、赤松氏討伐の幕府軍が派兵され、但馬の山名持豊が觜崎村の西福寺を本陣としています。
対して、柴摺城は觜崎右衛門二郎則重が迎え撃ったものの落城、山名の大軍は城山城を取り囲みました。
間もなく、幕府軍は城山城を総攻撃し満祐は子供の赤松教康と弟の赤松則繁を城外に脱出させると自刃して果てています。
江戸時代に入り改めて因幡街道や出雲街道、美作道等が開削されると宿場町に指定され、飾西宿からの荷物の継立て、揖保川を挟んだ西岸の觜崎村は千本宿からの継ぎ立を行っています。
揖保川舟運の拠点でもあり多くの物資や荷物が積み下ろされ、「寝釈迦の渡し」と呼ばれる渡しもあり人の往来も盛んでした。
本陣は松原五郎右衛門家が歴任し、文化10年に行われた伊能忠敬の第8次測量では宿所として利用されています。
現在でも街道沿いには古民家が点在し宿場町の雰囲気を残しています。
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