三日月宿

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三日月宿:略データ
・場 所・兵庫県佐用町三日月
・概 要・当地は「播磨国風土記」讃容郡中川里の条に見える弥加都岐原の遺称地に比定され、仁徳天皇の御代に伯耆国の加具漏と因幡国の邑由胡を処罰(水責め)した地が弥加都岐原とされます。

新宮町との町境にある大椋は承久3年に発生した承久の乱で鎌倉幕府に敗北した後鳥羽上皇が隠岐に流され、当地に立寄った際、大椋に弓をかけて休息したとの故事から「弓の木」とも呼ばれ、県指定天然記念物に指定されています。

地名は鎌倉幕府の執権、北条時頼が仏門に入り、当地を巡錫で訪れた際、重病を患い、村人達の手厚い看病の末、三ヵ月後に回復した事に由来するとも云われ、町内に境内を構えている最明寺には時頼が当地に滞在中、自ら彫刻したと伝わる北条時頼坐像が安置され、貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。

慶長6年に姫路藩主となった池田輝政は甥にあたる池田由之を2万2千石で平福に築かれた利神城に配しています。

由之は利神城の拡張工事をすると共に城下町の町割りや領内の開発も行い、その一環として因幡街道も整備したとされ当地も宿場町に指定されています。

寛永年間には作州街道も整備され、寛永12年に参勤交代が制度化されると、因幡街道が鳥取藩池田侯の参勤交代の経路として利用されました。

三日月宿には池田侯が参勤交代の際に休憩所として利用出来る本陣が設置されています。

本陣職を担った織田家は織田信長の弟である織田信包の後裔とも云われ、織田家の家紋の織田木爪を掲げています。

屋敷も三日月宿の中で最大規模で、格式の高い主屋には当時の関札等多くの歴史的資料を所有しています。

さらに、出雲街道が開削されると三日月宿がその分岐点となりました。出雲街道は松江藩や、その支藩である広瀬藩の経路でもありました。

元禄10年に美作国津山藩の藩主だった森家が改易、それに伴い分家筋だった津山新田藩の藩主だった森長俊が佐用郡・揖西郡・穴粟郡内65箇村、1万5千石で三日月藩が立藩しています。

三日月宿の隣地である乃井野には藩庁である三日月陣屋が設けられ陣屋町が整備されました。

藩主である森家は戦国時代に織田信長の小姓として知られる森蘭丸を輩出した森家の後継で、奇しくも本陣の織田家から見ると家臣筋に当たります。

又、張作霖爆殺事件の立案者である河本大作は三日月村の地主、河本参二の次男だった事から、河本家の菩提寺である明光寺の境内には河本大作の碑が建立されています。

現在も、街道沿いには桝形や、伝統的な町屋建築が点在し、特に本陣の織田家の格式の高い屋敷は異彩を放っています。

三日月宿:付近地図
兵庫県の因幡街道宿場町
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