・当地域には弥生時代の飾西東山遺跡、川西弥生墳墓群、古墳時代の東山古墳群があり、比較的早くから開発されていた事が窺えます。
条里制の遺構も確認され、鎮守である飾西大年神社も早くから当地の産土神として奉斎されてきたと思われます。
天暦4年11月20日の東大寺封戸荘園并寺用雑物目録に「餝磨西郡」と記され鎌倉時代後期頃に飾磨郡が東西に分かれ当地は飾西郡に属しました。
宿場内に境内を構える笠寺は平安時代書記に播磨大掾巨智延昌が開創した寺院で、貞和4年に編纂された「峯相記」には「笠寺薬師」と記され、寺号は追手から当寺に逃れてきた旅人が本尊に助けを求め御経を唱えると、薬師如来が出現し笠を賜り、身代わりとなって助けられたとの故事に由来すると伝えられています。
江戸時代に入ると姫路藩領に組み込まれ、その後は龍野藩、天領、小田原藩飛地、天領、宇都宮藩飛地、天領と推移し明治維新を迎えています。
寛政9年に中山助大夫が林田藩に提出した嘆願書によると、寛永年間に因幡街道、出雲街道等の宿場町である飾西宿が開宿しています。
本陣と当地の庄屋、一里継番所は上記の中山助大夫家が歴任し、文化10年に行われた伊能忠敬の第8次測量の際には本陣と内海屋才助家を宿所として利用しています。
文政年間には当時の中山助太夫が顕正院妙見堂を開創し、跡を継いだ子供が本堂を造営したとされ、境内背後には中山家代々の墓域となっています。
宝暦11年の村明細帳によると、石高は556石余、出屋敷分184石余、家屋83戸、人数417人、牛12疋、駅馬8疋、伝馬宿入用として石高100石につき米6升、蔵米入用よして高100石につき銀15匁を上納したと記しています。
隣接する実法寺と町田も駅役を務め、幕府からの宿助成金と一時的な往来人馬の刎銭が認められています。
現在も街道沿いには古民家が点在する一方で、本陣の表門が老朽化によって取り壊される等次第に当時の雰囲気が失われつつあります。
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