・当地は比較的早くから開けていた地域で、現在は消滅したもののかつては8基の円墳から構成された千本古墳や鞍背山古墳が築造されていました。
古代の官道である美作道や因幡街道が開削されると、その経路上にあった為、渡来系と思われる集団が住み着き栗栖廃寺を開創しており、その跡地からは新羅や唐の鬼瓦を模倣したような3枚の鬼瓦が出土しています。
鎌倉時代末期、鎌倉幕府の転覆を画策した後醍醐天皇は、その計画が露呈した事で捕縛され隠岐島に流されました。
その後、伯耆国の国人領主である名和長年等の支援を受け、隠岐島を脱出すると、船上山の戦いで、幕府軍を退け、京都の凱旋帰国しました。
元弘3年に筆された「書写山行幸記」によると、船上山を出立した御醍醐天皇は天皇方に加担した名和長年、塩谷高貞、朝山太郎等を引き連れ、5月26日に播磨国千本宿で宿泊しています。
翌、5月27日に書写山円教寺参詣の迎えとして参向し武具に身を固めた円教寺宗徒80余騎と共に千本宿を出立し、箸崎宿で休息、書写山の行幸を行っています。
文明12年には千本に境内を構えていた栗棘山慈恩禅師で天隠龍沢が宝洲宗衆の七周忌を行っています。
天隠龍沢は播磨国揖西郡栗栖村千本出身の臨済宗の高僧で、当地の慈恩寺の僧侶に養われ、永享3年に建仁寺に入り、永享10年に出家、天柱和尚の使徒となり宝洲衆に師事しました。
戦国時代の船曳杢左衛門宛の能見祐清感状写(黒田文書)によると祐清は千本表まで進軍し、敵兵を一掃する功績を挙げたと記されています。
祐清はどの様な人物かは判りませんが、宇野祐清が熊見城の城主だった事から「能見」は「熊見」の誤記の可能性があります。
江戸時代に入ると姫路藩に属し、元和3年に龍野藩領になったものの、明暦4年に天領となり、寛文12年に再び龍野藩に復し、その支配は明治遺臣まで続いています。
一方、因幡街道や出雲街道、美作街道が改めて開削されると宿場町に指定され、伝馬役として馬25疋が常置されました。安政2年に記録された「宗旨改帳」によると戸数232人、人口826人と記されています。
本陣は内海家が歴任し、因幡街道は鳥取藩主家池田家、出雲街道は松江藩主松平家、美作街道は津山藩松平家等が参勤交代の経路となった為、内海家の屋敷に設けられた本陣を宿泊や終息で利用し、宿札等が残されています。
文化10年12月26日には伊能忠敬が第8継ぎ測量で千本宿を訪れており、三ヶ月村中町を出立した一行を龍野藩の藩士一野瀬彦四郎をはじめ、田中茂七、中井久兵衛、平七が出迎え、内海茂右衛門家や五郎左衛門家を宿舎として利用しています。
慶応4年に西園寺公望監督が率いる山陰道鎮撫使が千本宿を利用しており、畿内、中国地方の諸藩の家臣等総勢334人、人足を含めると総勢約1千人が宿泊し、その内本陣の内海孫九郎家には44人が宿泊しています。
現在も本陣を担った内海家や複数の古民家が残されており、懐かしい町並みを見る事が出来ます。
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