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兵庫県・名所・見所 |
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新温泉町概要: 6世紀後半には二方古墳が築造され、小規模ながら当時なんらかな支配階級の人物が存在していたと思われます。確証はないものの二方国が立国し美尼布命が国造として派遣されたとされ、その後但馬国に併合され二方郡が成立したと伝えられています。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社二方神社の祭神は美尼布命(現在は大己貴神)とも云われ、同じく式内社で二方郡の総社である面沼神社も美尼布命を祀っています。中世に入ると出雲発祥の塩冶氏の一族が支配し、戦国時代にはその後裔である塩冶高清が芦屋城を居城として各地を転戦します。高清は永禄12年(1569)に織田信長に従属しました為、鳥取城(鳥取県鳥取市)主の武田高信と敵対、芦屋城を巡る攻防戦に発展しましたが勝利しています。その後、高清は毛利氏に属した為、天正8年(1580)に羽柴秀吉の但馬侵攻により芦屋城は落城、さらに立て籠もった鳥取城の支城、雁金城や丸山城も落城し自決しています。新温泉町周辺は、秀吉の家臣宮部継潤(鳥取城主)の支配下に入りますが慶長5年(1600)の関が原の戦いで西軍に組した為、鳥取城が落城し継潤も自決します。江戸時代に入ると若桜藩に属し、新温泉町周辺は藩主山崎家盛の弟、宮城右京進頼久が6千石で配されます。当初は芦屋城の麓に陣屋を構えていましたが寛永4年(1627)、3代宮城豊嗣は1万3千石に加増となり陣屋を清富に移しています。寛永20年(1643)豊嗣が39歳で死去すると宮城家は改易となり、その後は京都の郡代五味備前守の支配を経て天領となります。又、古くから風待ち港としても知られ西回り航路が整備されると北前船の寄港地としても発展し多くの廻船問屋が軒を連ねる港町となりました。現在でも当時の名残が見られる町並みが残っています。
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新温泉町 |
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新温泉町:観光・見所 |
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