播磨国総社(射楯兵主神社)概要: 射楯兵主神社の創建は不詳ですが奈良時代初期に編纂された「播磨国風土記」に因達神山(八丈岩山?)に伊太代神(射楯神)が鎮座している事が記載されている事から少なくともこれ以前から勧請されていました。もう一神の兵主神は欽明天皇25年(564)又は天平宝字8年(764)に現在の水尾山に勧請されたのが始まりとされ、延暦6年(787)に現在の姫路城付近に遷座、その後、射楯神が合祀されたと思われます。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社(射楯兵主神社二座)として記載され当時から格式の高い神社として知られていました。朝廷からも崇敬され天慶2年(939)の藤原純友の乱(承平天慶の乱)の際には戦勝祈願の為に藤原好時が勅使として派遣され、正暦2年(991)の大江山の鬼賊退治の際にも祈願が行われ見事念願成就すると神意に感謝し正一位を賜っています。平安時代末期の養和元年(1181)、播磨国に鎮座した神社祭神の分霊174座を勧請合祀した事から播磨国総鎮守となり、通称「播磨国総社」と呼ばれるようになりました。歴代領主からも崇敬庇護され播磨国守護の赤松氏は釣鐘を寄進し、永禄10年(1567)には黒田職隆が神門と拝殿を修築、天正9年(1581)には羽柴秀吉が姫路城を築いた際に現在地に遷座再建され社領100石が寄進されました。江戸時代に入ると幕府や歴代姫路藩主が庇護し、幕府からは社領150石の朱印状を賜り、池田輝政は太鼓橋、本田忠政は社殿や玉垣の造営、慶安5年(1652)には榊原忠次が石鳥居(高さ7.4m、柱間5.8m、花崗岩製、兵庫県指定文化財)を寄進しています。特殊神事として61年に1つの山を設けて祭神の依代とする一ツ山大祭と21年毎に3つの山を設ける三ツ山大祭は兵庫県指定無形民俗文化財に指定されています(山の雛形は国指定有形民俗文化財)。古くから神仏習合し別当寺院として般若院(般若寺)が祭祀を司り、「総社伊和大明神」や「軍八頭正一総社伊和大明神」などと称していましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が廃され社号を「射楯兵主神社」に復し、明治4年(1871)に県社に列し、太平洋戦争後は別表神社に指定されています。神門(神社山門)は入母屋、銅板葺、一間一戸、四脚門。拝殿は入母屋、本瓦葺、平入、正面千鳥破風、桁行4間、正面1間向拝付。本殿は三間社流造、正面千鳥破風、銅板葺。祭神:射楯大神、兵主大神。
播磨国総社(射楯兵主神社)の文化財
・ 太刀(銘:定、附:韋巻柄及び茎断片、鎌倉時代中期、綾小路定利作)−国指定重要文化財
・ 三ツ山雛型−例祭で奉納される「置き山」のひな型−国指定重要有形民俗文化財
・ 石造鳥居−慶安5年−花崗岩製、高さ7.4m、柱間5.8m−兵庫県指定文化財
・ 一ツ山大祭−61年毎−兵庫県指定無形民俗文化財
・ 三ツ山大祭−21年毎−兵庫県指定無形民俗文化財
・ 三ツ山祭礼図屏風−江戸時代中期−2曲屏風仕立−兵庫県指定文化財
・ 銅鐘−永正3年−置塩城主赤松義村奉納−姫路市指定文化財
・ 忠国剣−江戸時代−一竿子忠綱(粟田口近江守の2代目)作−姫路市指定文化財
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