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兵庫県・名所・見所 |
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旧居留地(神戸市)概要: 安政5年(1858)、日米修好通商条約締結により横浜・長崎・函館・新潟・兵庫(後の神戸)の5港が外国に対して開かれた港として定められ、それを受け兵庫(神戸)は慶応3年(1868)に開港となりました。当時の日本人は外国人と接した事が無く、渡航してきた外国人も日本人の文化や仕来りについて殆ど知らなかった事もあり、その接触には大小の行き違いが生じ中には殺傷事件として発展しました。そこで、外国人の居住地を隔離した異人街が計画され外国人居留地と呼ばれました。基本設計段階からイギリス人土木技術者J.W.ハートを招いて西洋風の町並みが計画され約500m四方の街区には街路樹や公園、下水道が完備され126区画に分けられた敷地には格子状の道路が敷かれました。居留地の街区が大凡完成すると各区画は外国人によって売買され、外国商館や異人館、領事館と呼ばれた西洋風の建物が次々建てられ町並みを形成していきました。居留地内では基本的に治外法権が認められ、独自に税金を徴収し警察や街区の整備、運営が行われました。明治27年(1894)、不平等条約が解消され新たに日英通商航海条約が締結されると外国人による治外法権も失効し明治32年(1899)には居留地も返還されることになりました。その後は日本人による開発が進みましたが近代建築の中にも洋風を取り入れた独特な建物を建設し旧外国人居留地の流れを汲む独特な町並みが形成されていきました。太平洋戦争の神戸空襲の戦禍により多くの建物が失いましたが現在も当時の建物が点在しています。
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旧居留地(神戸市) |
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