平福宿概要: 平福の地は中世、佐用川東岸の利神山の山頂に築かれた利神城の城下町として形成されました。利神城は貞和5年/正平4年に赤松氏の一族である別所敦範によって築城された山城で、赤松氏の居城白旗城の有力な支城として重要視されました。
嘉吉元年に発生した嘉吉の乱により赤松氏が没落すると、別所家も衰微しました。文正元年に後裔とされる別所治定が利神城の城主に復権し、その後は別所氏が当地を治めています。羽柴秀吉による中国攻めの際、当時の城主である別所定道が秀吉に従ったものの、跡を継いだ弟の別所林治は、本家筋で三木城の城主である別所長治に従い織田家と対立した為、織田方で上月城の城主尼子勝久と家臣の山中幸盛に利神城が攻められ落城しています。
その後、当地は毛利領となり、利神城は宇喜多直家に与えられています。宇喜多秀家は豊臣秀吉から寵愛を受け猶子の関係を結び、五大老に抜擢されたものの、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで西軍に与した為、改易となっています。
同年に池田輝政が入封すると、翌、慶長6年には甥の池田由之に平福領2万2千石が文治されています。由之は利神城を近代城郭にするべく大改修を行い、2万2千石にそぐわない程壮大なものだった事から輝政は天守閣を破却されたと云われています。
慶長14年に由之が下津井城に遷ると、慶長15年に輝政の6男である池田輝興が2万5千石が与えられ平福藩を立藩しています。寛永8年に輝興は兄である池田政綱の跡を継いで赤穂藩主に就任した為、平福藩は廃藩、利神城も廃城となっています。
寛永17年に松平康重の長男である松平康政の子供、松平康朗が祖父の遺領から5千石が分知され、当地に陣屋を設け、その後は松平家が明治維新まで支配しています。
一方、江戸時代に入り、改めて因幡街道が開削されると宿場町に指定され、特に鳥取藩主池田侯が因幡街道を参勤交代の経路として利用した事から平福宿にも本陣が設けられています。
鳥取藩主の参勤交代は寛永12年から文久2年の間、178回行われ、基本的に因幡街道では智頭宿と大原宿の本陣が宿所だった事から平福宿の本陣は休憩所として利用されています。
当時の本陣の屋敷は700坪の規模を有していましたが、明治維新後は衰微し、現在は素戔嗚尊神社の「お旅所」に利用され庭園として整備されています。又、佐用川舟運の拠点だった事から多くの物資の集積場となり、300戸余りの家の約8割に屋号を掲げる商家が軒を連ねる因幡街道最大の宿場町として発展しました。
現在でも街道沿いには店蔵や伝統的な町屋建築、佐用川西岸の川沿いには印象的な土蔵群が残され、風情ある町並み景観を見る事が出来ます。平福宿の町並みは貴重な事から佐用町歴史的環境保存条例の保存地区に選定されています。
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