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兵庫県・名所・見所 |
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養父市概要: 養父市は古墳が集中して築造された地域で7世紀に築造された箕谷古墳群(1〜5号墳)では「戊辰年五月□」と刻まれた銘文鉄刀が発見されています。6〜7世紀に築造された大薮古墳群は禁裡塚古墳(円墳:直径約35m、高さ9m)、塚山古墳(円墳:直径35m、高さ11m・基壇:方約35m)、西ノ岡古墳(円墳:直径約25m)、こうもり塚古墳(方墳:長辺約28m、短辺約23m)で構成されている古墳群で、何れも大型で横穴式石室は但馬国では最大級の規模を持っています。これらのことは当時の但馬国の支配級の首長が数代に渡りこの地で統治していたと推定され政治的にも重要な存在だったと思われます。伝承では大化3年(647)、朝廷に敵対する悪賊を征伐した日下部表米親王(孝徳天皇の皇)が但馬国養父郡を与えられ、その後裔の一族、余三太夫宗高が朝倉荘を領した時に朝倉氏を名乗ります。朝倉高清は源頼朝に従った為、但馬の地を安堵されその3男重清が八木城の城主になると八木氏の祖となり長くこの地を支配します(朝倉氏一族の1派は一乗谷(福井県福井市)に移り越前守護朝倉氏となったとも。)。八木氏は室町時代中期以降は但馬守護山名氏に従い山名四天王の1人として地位を確立しますが戦国時代に入ると半独立化し独自の行動をとるようになります。当時の当主、八木豊信は毛利氏と織田氏にあいまいな態度をとっていましたが天正5年(1577)に行われた羽柴秀長の但馬侵攻後に織田側に属し度々秀吉と共に因幡侵攻などに参戦しました。その後、豊信は歴史上から登場することが無く、天正13年(1585)、代わって別所重棟が八木城主1万2千石で入封します。慶長5年(1600)、当時の城主別所吉治は西軍に組みしたため改易となり、八木城も廃城となりました。江戸時代に入ると、山陰街道の宿場町や舟運の川港として経済的に発展しています。
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養父市 |
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