出石神社(豊岡市)概要: 出石神社の創建は不詳ですが古くから但馬開発の祖とされる天日槍命が祀られ、但馬国一宮として崇敬されてきた神社です。祭神である天日槍命は新羅の王族の血筋を持つ人物で、垂仁天皇3年(紀元前27年)に渡来し八種の宝物(珠二貫・振浪比礼・切浪比礼・振風比礼・切風比礼・奥津鏡・辺津鏡)を天皇に貢献し但馬国が与えられました。当時但馬平野一帯は泥水で満たされている状態でしたが天日槍命が岩山を切り開き泥水を日本海に流したことで豊かな土地になったと云われ開発神として信仰されました。格式も高く「続日本紀」によると承和12年(845)7月には従五位下に貞観10年(868)12月に従五位上、「三代実録」によると貞観16年(874)に正五位上、貞観元年(859)の史記には但馬第一の大社と記されています。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には名神大社として記載され、粟鹿神社、絹巻神社、養父神社、小田井縣神社と共に但馬国五社大明神にも数えられています。正平6年(1351)には後村上天皇の勅願所となり、室町時代には守護である山名氏から崇敬され社運も隆盛しますが、永正元年(1504)の山名氏の内紛による兵火で焼失し天正年間(1573〜1592年)の羽柴秀吉が丹波侵攻し山名氏が滅亡したことで庇護者を失い衰退し社領も没収されています。江戸時代に入ると歴代出石藩歴代藩主から崇敬され社殿の造営や社領の寄進が行われ、再度社運が隆盛しています。古くから神仏習合し「一宮大明神」などと称し、別当寺院として東光院総持寺が祭祀を司っていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され社号を「出石神社」に改め明治4年(1871)に国幣中社に列しています。現在の社殿は明治43年(1910)の火災で焼失後の大正3年(1914)に再建されたもので、神門(神社山門)は切妻、銅板葺、三間一戸、八脚単層門。拝殿は入母屋、銅板葺、平入、桁行4間、梁間3間、正面1間向拝付。本殿は三間社流造、銅板葺。境内の東北隅は祭神である天日槍命の墓域とされる事から古代から誰も入ってはならないと云われています。社宝である脇差(但州住国光と梵字の銘)が国指定重要文化財に、昭和8年(1933)の出石川改修時に見つかった旧第2鳥居の残欠が豊岡市指定文化財にそれぞれ指定されています。祭神:伊豆志八前大神、天日槍命。
出石神社の文化財
・ 脇差−南北朝時代−銘:但州住国光、全長39.2cm−国指定重要文化財
・ 出石神社社殿−大正3年−本殿・幣殿・祝詞殿・拝殿−豊岡市指定文化財
・ 出石大神宮銅印−鎌倉時代−1辺5.5cm、「出石大神宮」の刻印−豊岡市文化財
・ 仙石政明具足−貞享3年−仙石政明着用の具足−豊岡市文化財
・ 小出公馬印−江戸時代−直径53cm−豊岡市文化財
・ 仙石秀久馬印−江戸時代−4尺の金の御幣−豊岡市文化財
・ 経文胴の甲冑−天正18年−鷲見藤兵衛久次着用の甲冑−豊岡市文化財
・ 猿猴の甲冑−元和元年−谷津主水着用の甲冑−豊岡市文化財
・ 後村上天皇綸旨−正平6年−太政官文書−豊岡市文化財
・ 蓮華王院院宣−豊岡市文化財
・ 家則・家朝補任状・軍忠状(他2)−鎌倉時代−豊岡市文化財
・ 出石神社旧鳥居残欠(2基)−豊岡市文化財
・ 幟まわし−江戸時代−豊岡市指定無形民俗文化財
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